読書、このひそやかなる愉しみ(1)
(国語科・小山先生)
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私の読書遍歴は、亜流「立川文庫」から始まる。「亜流」と冠したのは、適当な呼称がないからだ。私は、十年ほど前までは、それが立川文庫であることを信じて疑わなかった。しかし、たまたま「立川文庫が巷間に流布したのは大正年間である」という指摘を受けて、それから後は、私の少年時代の聖典は、歴とした名を失ってしまったのである。再三度、その事の真偽を慥めようと思ったこともあるが、私の心情としては、今更「立川文庫」以外のものであってよかろうはずがなく、止むを得ず「亜流」の名を冠して、昔馴染みの呼称としているのである。
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テレビ・映画・観賞用スポーツなど、娯楽に事欠かぬ当今の有難い御時世とは違って、儒教倫理の美風が子どもたちの上に絶対の権威を誇っていた昭和初年、子どもたちの楽しみといえば、露地裏で怖ろしい大人たちの目を掠めて開帳するビー玉やベイゴマに熱をあげるくらいのものであった。そんな私たち悪童仲間の一人が、たまたま持ち込んだ新しい愉悦の泉、それが亜流「立川文庫」である。
粗悪な紙質の五銭本(十銭のもあった)に登場する英雄豪傑どもは、忽ちにして少年の心を占領した。大人が与えてくれるとりすました教育本の良質紙と違ったザラザラする手触り、大人たちの良識を顰蹙させる低俗な表紙絵、当今の科学づいたお子さんなら、四、五歳の幼児でも観破しそうな荒唐無稽な語りの展開、それらすべてが却って少年の日常に豊かな彩りを与えてくれたものである。
もちろん、小学校の先生方は悪書の最たるものとして槍玉にあげ、善良な親たちの目に触れようものなら、問答無用流の男親の大喝一声、あるいは愁傷やる方なき女親の嘆きの種ともなり、向う三軒両隣り模範少年の誉れ高き孝行息子も納屋の片隅に縮こまり、世にも情けない仕儀と相成るのであった。そのため、私たち同憂の士は、まるで秘密結社の極秘文書を奉ずるような念の入れ方で、秘蔵の珍書を回覧しあったものである。当今の自意識過剰気味の早熟なお子さんたちと違って、反抗期などという器用な言葉も知らず、大人の論理に歯向う才覚も持ちあわせなかった、太古ながらの素朴な心情に培われた私たちではあったが、流石に人の子の性は争われないもの、かくも熱烈な傾倒を生み出したものは、大人たちに対して秘密を持つという一事に大きく基因していたようである。
寝具を頭からひっかぶり、隠し持ったる懐中電灯の描く秘密的な光の輪の中で、息をひそめている少年の表情を想像すれば、愉悦の極まるところも容易に察しがつくというものであろう。母の跫音を耳敏くききつけたときの緊張感、光の輪は闇にのまれ、閉ざした瞼の裏にさまざまな形をした光彩が妖しく蠢き、その間隙を縫って主人公たちが跳梁し、少年の心は夢幻の淵に漂い行く。かくて、亜流立川文庫は、少年のバイブルともなったのである。
禁断の書は、大人たちの懸念をよそに、少年に多くのみのりを与えてくれた。私の語彙は急速にふくらみ、些かアウト・サイダーに偏するが、日本歴史(戦国時代前後)の知識も労せず身につき、多情多感な少年に成長していった。もともと小心なところのある少年は、この秘めたる行為に耽ける間、当然のこととして罪の意識に脅かされはしたが、それも、学校の成績が下らないという満足感で相殺されたものである。
しかし、何にもまして私が感謝することは、「書に親しむという良き習慣を、深い愉悦の中で自然に身につけたこと」「読書は孤独であってはならないということ」ーーこの二つの貴重な教訓を、亜流「立川文庫」から学んだということである。