私の読書
社会科・吉田(夏)先生

子供の頃から本を読むことが好きだった。テレビは勿論なかったし、ラジオにもほとんど縁がなかった。つまり、読書は一種の「遊び」であったのだ。小遣銭をためて買ったり、両親に買ってもらったり、読む本はほとんど買った本であった。図書館はなかったし、友達もあまり本を持っていなかったせいであらう。

子供の頃の癖が今でも続いている。「遊び」で読むのであるから、本の種類は雑多である。一番つき合いの長い歴史学関係のものだけでなく、人文科学、社会科学、自然科学のいろんな分野の本を気の向くままに読む。系統的・組織的な読書とは今もって無縁である。しかも、読む本のほとんどを買いこんでくるのであるから、始末におえない。結婚したばかりの頃、女房が私の蔵書のリストを作って整理すると言い出して始めたが、次から次へと増え続けるため、とうとう音を上げて止めてしまった。狭い我が家はついに本で一杯になり、私自身も困ったことがある。そのたびに古本屋を呼んで始末するのだが、その金で又本を買うものだから、何回売ってもしばらくすると又新顔の本があふれて人間様が窮屈になることは変りはない。おそらく一生この繰り返しであろう。

こんなわけで、私が影響を受けた本は種々雑多である。小学生の頃は、吉川英治の「三国志」や黒岩涙香訳の「岩窟王」に夢中になったし、中学時代は夏目漱石はトルストイ、或は「論語」や「平家物語」に熱中した。高校時代は、サルトル、アラゴン、ヘーゲル、マルクスなど。それぞれみな濫読したものばかりであるが、高校時代にやや精読に近い読み方をしたことがあった。ヘーゲルとマルクスであった。二人はともに巨大な宇宙を内包するが如き体系を持つ人物であり、サルトルやアラゴンが粋な一品料理であるとすれば、彼らはフル・コースの晩餐のような感じがした。だから、私のような小さな頭脳の持主にはとても全体像を理解することはできなかったが、生意気盛りの年令のものにとって、ぶつかりがいのある対象であった。登山に凝りはじめたのもこの頃であった。高い山に登ることとヘーゲルやマルクスを読むことが何か似たところがあったのかも知れない。大学で歴史学を専攻するようになったのはこの二人の影響からだったのではないか、と思っている。とすると、読書の影響力は馬鹿にできないようだ。どうせ影響を受けるのなら自分で読みたくて読んだ本の影響を受ける方が良い。無理矢理押しつけられた本のために後に悔を残すようなことになってはいけない、と思う。この意味で、「遊び」として濫読してきたことをあまり後悔していない。

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