遺稿詩集『雨あがり』小山しづ

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母しづが亡くなりましてから、一年になります。

一年前、母は、なんの前触れなく、思いもかけぬ業病に苦しんだ挙句に逝きました。激しい苦しみがわずか数日であったことは、せめてもの救いかもしれません。最期の顔は、元気に方々を歩き回っていたときのように晴れやかで、穏やかに笑みさえたたえていました。

昨年の夏から秋にかけて、母はいつも以上に、旅行、コンサート、会食などと出歩き、かつ、家では夜遅くまでワープロ相手に格闘していたようです。十月の連休に、遠野に二泊三日で出かけましたが、これが最後の旅行となりました。十日の夜、「今度こそバチがあたっちゃった」と言いながら、赤い顔をして帰ってきて、それから三日、家で寝ていましたが、時折妙なことを口にしました。「変なのよお、子供の頃から最近までのことが、それこそ走馬燈のように目くるめいてね」「夢の中で、達筆で長い文章が書かれているんだけれど、その内容は、確かに私が書いたものなの、忘れないうちに書き留めておかなくちゃ、絶対に自分の文章だというのは分かるのよ」。十四日の朝、「仕事に行ってくるね」と言うと、「ありがと」と言います。「ばかな言い方をしないでよ」と返したのが、最後の会話となりました。

夕方、意識不明に陥り、救急病院に運ばれて、劇症肝炎と診断されました。母のそばで時を過ごすあいだ、病院の窓から見た空は時折雨がまじり、どんよりとしていました。晴れないだろうか、晴れれば助かる、と藁にもすがる思いでいましたが、亡くなる日まで秋晴れには恵まれませんでした。葬儀の日に晴れ渡った空を見上げ、さすが「晴れ女」と酔いどれた頭で呟きました。それから秋の空はずっと晴れていて、こんなにいい天気なのに母は出歩かないのか、とほんの数日前との大きな違いを受け入れることができませんでした。

秋から冬へと日が短くなり、父や祖母の言動をはたから見続けているしかない毎日でした。身近にいて何かと気遣って下さる方々に、春になれば変わる、春になれば、と言い続けたせいもあって、春は何があっても毎年来ることをつくづく実感しました。昨年の春は、母と多摩川近くの桜の名所で花見をしましたが、また来年も花見をしようと決めた場所は、その半年後に母が煙となって昇天していくのを見送った丘陵の一角にあります。今年の春、その丘の桜が見事な花吹雪を降らせて散っていくのを、他の花見客にまじりながらひっそりと見送りました。青い芽が一斉に吹き出す頃には、生まれて初めて新緑を見たように、心が動き出すのを感じました。待ち遠しく思っていた春でした。

お盆では新盆旧盆を問わず、大勢の方々が、母に早く帰っておいでと声をかけて下さり、母のまわりは一段と賑やかでした。母は知っているでしょうか、こんなに大勢の方々がこんなに深くその死を悼んでくださっていることを。八月の半ば過ぎに、琵琶湖の北の渡岸寺に母の位牌を納めました。生前親しかった方や多くの見知らぬ人々に囲まれて、寂しい思いをすることもないだろうと思います。

母の底知れないパワーが好きでした。物の考え方や娘に対する母親としての言動には、食い違いや鬱陶しさを感じ、辟易することもありました。娘二人でそれを批判し、愚痴ることもありましたが、あのパワーには驚嘆し、自分たちもその影響を多分に受けていることに感謝していました。母は、ひたすら外へ外へと向かい、時折後ろを振り返ることはあっても、ええいままよ、と振り切って、少しでも前へ前へと歩こうとしていました。卑屈なくらい自己卑下することもある反面、そんな自分をなんとか変えようとし続けていました。

母を形容する言葉に、いくつになっても少女のような、というのがあります。ずっと夢見る乙女だった、と笑うこともできますが、死ぬまで必死に生きたということも、字義を改めて確認するような気持ちで感じます。夢見る老婆になるまで生きていてほしかった。

母の生前から、夢とうつつの区別がつかなくなり始めていた祖母は、思いがけぬ一人娘の死に出くわして、混濁の度合いをいっそう深めています。わたしたちを母と勘違いしたり、母の居所を尋ねたり、遺影を見て母が死んだことを思い出しては笑ったり、少女の頃の母の写真を見て、かわいかったもんねえと言いながら、何年生で死んだかねと聞いたり、祖母の様々な混乱は今では日常茶飯のことです。

母の死によって、残されたわたしたちの生活は一変してしまったようですが、それは、表面的なことにすぎないとも思います。母の永い不在は、言い尽くせぬほどの変わりようですが、母は確実にわたしたちの中に生き、わたしたちに様々な問いを投げかけます。

多くの友人に恵まれた母でしたが、真の友というのはいたのか、否、母だけではなく、自分たちにも真の友はいるのか、真の友という存在はありうるのか、誰もが幻のように真の友を願いながら果たせず、ひとりで生き、ひとりで死んでいくのではないか。その寂しさを埋めようとして、母は、あれほど多くの友人を作り、賑やかな笑いの渦を絶えさせまいとしていたのではないか。それでもなお、ぽっかり孤独の穴が空いていたのではないか。

母がやりたかったことはなんだろう。

母は、子育てが終わった頃から、仕事を転々としています。最後に出会ったペンクラブの仕事は、自他ともに、ようやく出会ったね、と言えるものでした。そこで母は何を感じていたのか。

母の口癖に、わたしのようにはならないで、という言葉があります。母の周囲には、翻訳家、デザイナー、研究家、と長い年月をかけて、一つのことを追い求め続け、いまもなお活躍中の方々が大勢いらっしゃいます。母は、そんな友人たちをうらやみながら、母親として、妻として、社会人として、何もかも中途半端な自分、というレッテルを自分に貼り続けていました。

壁に綺麗なタイルの絵を飾り、レースのカーテンを自分で仕立てて、家庭を守っていきたい、自分もプロとして言葉で自分を表現したい、母は、この両者のどちらを選ぶか、どちらが自分の意とするところか、そう悩み続けながら、何十年も過ごしてきたように思います。母の選んだ結論は、後者に傾くものでしたが、プロにはなれなかった。自分自身をがむしゃらに対象にぶつけ、何かが目の前に開かれるのを待ち続けるばかりでした。なれない、ではなく、ならない、と思い決めることさえしていたら。

料理の才能がない、だの、プロとして知識を身につけてこなかった、だの、書く力がない、だのと言っては、娘たちに希望を託しました。生前、何度となく、料理好きでよかった、今の仕事をずっと続けるのね、お前は書かないの、などと繰り返し、わたしのようにはなってほしくないからこうこうしなさい、という理屈が、わたしたちにはうるさく思われました。母がそう言い続けるなら従わないと反発することもありました。ところが、そうせっつく母が突然この世からいなくなってしまいました。これからわたしたちは何をすべきか。

背負い水、という言葉を聞いたことがあります。人が一生のうちに使いきる水の量は決まっていて、それが尽きたとき、人はその生を終える。そこから連想して、母の背負いパワーに思いを馳せると、まだ尽きていなかったように思われます。

妙な荒天にあきれかえるうちに、一周忌を迎えます。一周忌に間に合うようにと、多くの方の励ましご協力を頂いて、『雨あがり』を上梓することとなりました。父の東奔西走ぶりを見ていて、少しピント外れですが、「死せる孔明生ける仲達を走らす」という言葉を思い出しました。母は、やはり、その周囲の者をぐるぐると振り回す、太陽のような存在でした。

『雨あがり』の中に、母のパワーや明るさ、そして、ぶきっちょうなところも懐かしんで頂ければ、と思います。

今年の秋は、雨のあがったあと、どんな空を見せるでしょうか。

      一九九四年十月十日

小山由記
小山真理