生き方の美しいひと
小山しづ遺稿詩集『雨あがり』に寄せて
以倉紘平
小山しづさんの遺稿詩集が、御遺族、特に御夫君の義昭氏や、しづさんの終生の友人であった丸山真由美さん等の意向で、出版される運びとなったことは嬉しい限りである。
しづさんが劇症肝炎で急逝されたのは、昨年(一九九三年)の十月十六日であった。後で聞くと、B型肝炎のウィルスを持っていたにもかかわらず、世話好きの彼女は、自分の健康管理を二の次にしていた様子である。
しづさんは、熊本の生まれだが、熊本女子専門学校英文科を卒業後は、上京して、早稲田大学第二文学部仏文科に一年ほど在籍した。在学中に義昭氏と結婚。その後は、肺結核のため中退している。
仕事は、中学の英語の先生の他、日本青年海外協力隊の非常勤講師や、慶応国際医学情報センター嘱託として、翻訳の仕事に従事したりした。
しかし、しづさんと切り離すことのできないのは、なんといっても、昭和五十一年から平成元年まで勤めた、日本ペンクラブ事務局での仕事である。彼女は、その中心人物として、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作等、歴代会長につかえ、大岡信、清岡卓行、中野孝次、五木寛之等の諸作家にも親炙していたようである。
しかし、私の驚きは、しづさんが、当然、見聞しているはずの高名な作家、詩人のエピソードの類いを、我々詩仲間に一切、話さなかった点である。同時に、自分が詩を書いているということも、故・井上靖氏を除いては、ペンクラブの会員諸氏の誰にも話していなかったらしい。後者の心理はわかるとしても、前者については、いかにもしづさんらしく、つつましやかで、奥床しいと思う。
しづさんは、井上靖会長時代、京都で開かれた国際ペンクラブの裏方の仕事の中心として活躍した。その後も、井上靖氏の創作活動に必要な資料の収集、その他の雑務処理に協力を惜しまなかった。
この度、御夫君の義昭氏から、私に遺稿詩集の跋文依頼があったとき、まっさきに念頭に浮かんだのは、井上靖氏であったが、氏は、すでにこの世の人ではない。他にも適任者はたくさんいらっしゃるはずであるが、義昭氏の話によれば、先刻の通り、しづさんは、自分が詩を書いていることを誰にも告げておらず、したがって、改めて、彼女の作品のすべてを差し出して、読む労をわずらわせ、さらに一文をいただくには気が重いということであった。
しづさんの言動は、かくのごとく、はじらいをもって、万事控え目であった。しかし、詩仲間の受賞式に、受賞者の受ける花束のバラの好みが、ローズピンクであると知ると、東京中の花屋をかけめぐるような、徹底した善意と親切と行動力の持ち主であった。私なども、彼女の恩恵を蒙ることが度々であった。
昨年の七月初旬、私のH氏受賞記念会が大阪で開かれたが、その後、帰京される嵯峨信之氏、安西均氏に、しづさんは、同行して下さった。新幹線の車中は、しづさんの細やかな配慮で、実に楽しく快適であったと両氏から電話で伺ったのであったが、何ということであろう、それから、あわただしく、しづさんも、安西均氏も旅立っていかれたのである。<しづさんには、お世話になった。お会いして、お礼を云いたかった。残念でならない。>という、その時の旅仲間の嵯峨信之氏のことばが、しづさんとかかわった、すべての人々に共通する思いであろう。
小山しづさんは、詩誌アリゼ(昭和六十二年創刊・隔月発行)の創刊同人、十四人のメンバーの一人であった。同じ創刊同人の丸山真由美さんの熊本時代の同窓として、我々の仲間に加わり、以来37号に載った絶筆「にらの花」まで、四回の欠稿を除いて、三十五編の作品を発表している。
しづさんは、遠方であり、多忙の人でもあったので、大阪で行われる合評会には、第12号の時を除いては顔を出していない。したがって、その作品については、全員で批評する機会がなく、今日に至るまで、小山しづという詩人の像については、同人のそれぞれが、各自の胸のうちに、思い思いの印象を育てて来たのであった。
今、彼女の作品のすべてを読み直し、しかし、もし、しづさんがあんなに多忙でなく、合評会に出ていたら、さぞかし席上、称讃されたに違いない作品の多いことを思って、残念な気持がする。
彼女の作品は、分けてみれば、およそ、次の六つに分類できるのではないか。
現在の自己の心境をうたった詩
「ポケットベル」「郵便車」「にらの花」
敗戦前後の体験を中心にした詩
「遠めがね」「翳む」「祈る」「百日紅」
肉親、母親をうたった詩
「帰郷」「黄昏」「冬日」「寒椿」「海棠」
身近な死者への追悼詩
「杖」「挽歌」「冬の桜」「流星」
旅の詩
「小樽」「熊野川」「城」「廃墟」「イスタンブール」
その他
ところで、これらの詩編の原点は、どこにあるのだろう。私の好きな「祈る」に前半を引いてみる。
一九四五年八月九日 十五歳の肺病やみの私に 未来はなかった 憧れや幼い恋は遠い白い雲となり その日 雲は 巨大な黒いきのこに化けて 紺碧の空を覆うた 火薬工場から 強制送還されたとき 肺は痛くも痒くもなかった 疼くのはこころだけ みんな戦っているのに みんな飢えているのに みんな家に帰りたいのに
敗戦の真夜中 用水路のほとりにうずくまって 私は泣いた あした 何を信じて どうすればよいのか 抗いようもない濁流に押され 葉かげにひっそりと咲いていた菱の 白い小さな花が よるべを失って 流れていった
<みんな戦っているのに みんな飢えているのに みんな家に帰りたいのに //敗戦の真夜中 用水路のほとりにうずくまって 私は泣いた>というフレーズは、小山しづという人格の核心だったと私は思う。学友<みんな>と労苦や思いを共にすることができなかったことに、心の<疼>きを感じていた、純粋で潔癖な少女は、敗戦の日の真夜中、うずくまって<泣>きながら、どんな決意をしたのであろう。
<抗いようもない濁流に押され ><よるべを失って 流れていった><葉かげにひっそりと咲いていた菱の 白い小さな花>とは、前述の<みんな>のことであり、戦争によって家族を失ない、傷つき、死亡した、無数の無名の人間のことである。
彼女の数少ない詩篇をつらぬく一筋の清潔で、一途な光芒は、たまたま、生の側に身を置くことになった彼女が、<抗いようもない濁流に押され>死を余儀なくされた人々への負い目を、強く生きぬくことによって返済しようとする十五歳の少女のけなげな決意から生まれていると言える。
敗戦の夜に、彼女がこぼした涙は、たとえば「海棠」という作品で、長旅を続ける愛娘に、<危ない 行くな 声を出そうとして われに返った 行くか 行かないか 娘の決めることだ 娘は ひたすら歩いている いま 私は祈りたい 砂丘のあらしにも 決して怯むことのないように>という、人生の選択となってあらわれている。生の側に立ったものは、かけがえのない自分の人生を、勇気をもって生きねばならないと、しづさんは言っているようである。そういう生き方からこぼれてくるキラキラしたものを、彼女は最も愛したのである。
この詩集の冒頭にある「ポケットベル」や「郵便車」は、自己の生活と人生が、はたして本当の自分の生活や人生であるのかという問によって成立している。二作とも、すぐれた作品だが、こういう問いかけがあることによって、この詩集は、厚みをもったと思う。
彼女の作品には、他に、完成度の高い老母をうたった限りなく優しい詩や、友人、知人に対する追悼詩などがある。これらの詩篇には、<抗いようもない濁流に押され>ていった人々−−無常の濁流も、戦争・政治の濁流もふくめて、それに抗しきれず流されていく人々への深い愛情と哀しみによってあふれている。
この心は、彼女が、日本ペンクラブの事務局にあって、その国の権力者に弾圧され、獄中にあって、自由を拘束されている世界各国の作家、詩人に、クリスマスカードやメッセージを送り続けた態度とつながっている。<濁流に押され>る人間に対して、しづさんは、限りなく優しい人であった。名作「雨あがり」にも、彼女のそうした優しさがよくあらわれている。
しぐれの朝、結婚して四日目に事故で夫を亡くしたドイツのひとが、ドイツ語訳、井上靖「挽歌」一篇に心癒された。同じ境遇にあるチェコの友人にもこの詩を読ませたいと思う。電話で依頼を受けたしづさんは、原詩の英訳を捜し出す。<あなたが亡くなってから五日目に、庭のくぬぎの最後の葉を落した風が吹きました・・・>敬愛する故・井上靖氏の「挽歌」のフレーズを口ずさみながら、駅に向かう。
寒さのきびしい日に詩人は昇天し それからもう十カ月も過ぎてしまった 詩のフレーズが私の胸深く滲みていく・・・ 詩集を手渡すことになった小さな駅の入り口に 金髪の 少女のようなドイツのひとが頼りなげに立っている 私はものも言えず その柔らかい手をつよく握りしめた
<頼りなげに立っている><少女のようなドイツのひと>は、かつて<敗戦の真夜中 用水路のほとりにうずくまって>泣いた十五歳の少女と似ている。井上靖氏の詩の言葉が、<少女のような ドイツのひと>を救ったように、小山しづさんもまた、詩を書くことによって、自責と後悔にとらわれていた十五歳の少女の、奥深い夢と決意を実現しようとしていたのである。
万事控え目であったしづさんだが、この詩集には、人生に対して、一途で清潔であったその生き方から、隠しようもなく匂い立つものが、いい香りを漂わせている。
小山しづさんは、生き方の美しいひとであった。生き方は、書き方だという定義の通り、彼女は、心やさしく、美しい詩を残した。この遺稿詩集のように、読後の印象のすがすがしい詩集はめったにない。