雨あがり 別冊
目次
時代の青あざ | 五木 寛之 |
向うの国の小山しづさんに | 井上 ふみ |
とぎれたままの会話 小山しづさんを憶う | 大岡 信 |
小山しづの詩 | 清岡 卓行 |
宇宙棋院の小山さん | 黒井 千次 |
しなやかな勁さ | 佐伯 彰一 |
しづさんの思い出 | 中野 孝次 |
しづさん、また会いましょう | 植田 いつ子 |
ごめんね、しづさん | 上田 公子 |
晴れ女 | 狩野 美智子 |
にらの花 | 丸山 真由美 |
詩集『雨あがり』上梓に際して | 小山 義昭 |
時代の青あざ 五木寬之
小山しづさんと最後にお会いしたのは、あれはいつのことだったのだろうか。小柄なしづさんがはにかんだような微笑をうかべながら控室にはいってくるイメージがうかびあがってくる。たぶんあれは湘南地方で何か講演めいた催しがあったあとにちがいない。
「うしろのほうで、お話をうかがっていました」 と、小山さんが言う。
「ぼくは知っているかたにきかれていると、照れくさくって話がしづらいんですよ。きょうは会場のあなたに気がつかなくてよかった」
それは本当だった。たぶんあがっていたせいにちがいない。さして広くない会場の隅のほうに立っていたという小山さんの姿に、私は壇の上から気づくことがなかったのだ。
その講演の中で山本健吉さんのことにすこし触れたこともあって、自然と小山さんとの会話は山本さんのことに移っていった。しばらく雑談をしたあと私たちはその場で別れたが、立ち去りぎわに小山さんが、近頃わたくしのような者でもそれなりにいろいろ考えあぐねることもありまして、と、目を伏せるようにして言われた表情を、なぜかよくおぼえている。しづさんの不意の訃報を私が受けとったのはそれから間もなくのことだった。
小山しづさんと私のつきあいは、小山さんが日本ペンクラブの事務局の中心的な存在として働いておられたときにはじまる。
当時、いろんないきさつで私がペンクラブの財政委員長という柄にもない仕事を押しつけられ、そのあとは国際委員長という厄介な役まで引き受けることになったのだ。もともと事務的な能力がまったくなく、しかも徹底的にルーズな物書きである私に、事務局を取り仕切っていた小山さんはずいぶん手こずられたにちがいない。時どき電話での会話中ふっと黙りこんでしまうようなこともあって、たぶん受話器を持ったまま困惑した表情でいるはずの小山さんの様子が、私には手にとるようにわかったものだった。
ペンクラブの実務を離れてから私は小山さんとお会いする機会もすくなくなり、そして湘南での最後の短かい再会がおとずれることになる。
つい先ごろ、小山さんが書き残された詩の中のいくつかの作品を目にする機会があった。私は小山さんが詩を書いておられることすら知らなかったのだが、残された作品の質の高さに愕然としたものだった。小山さんの詩には、私と世代を同じゅうする人間に共通の、どうしようもない後遺症が色濃く翳を落としている。戦争という時代が少年少女の心に残した青いあざを、小山さんは繁栄のさなかにも黙ってひっそりと保ちつづけていたのだろう。
私たちが忘れてはならないものを忘れようとしかけているいま、小山さんの静かな声は私たちの胸に冷たい水のように滲み通ってゆく。人は現実に生きているときだけがその人ではなく、遺したものの光が、逝ったあともひとびとを照らしつづけることを、いまさらのように思った。
晩年までどこかにふと少女のような頼りなげな風情を感じさせた小山さんのことを、今あらためてなつかしく思う。
(作家)
向うの国の小山しづさんに 井上ふみ
小山さん本当にびっくりいたしましたよ。
九月二十八日の私の誕生日に何をお祝いにいたしましょうかとお尋ねになりました。私は躊躇せずに、傘を頂戴、一番安いのをね、無くしても惜しくないから一番安いのをね、と念を押しました。
私は最近傘をどこかに置き忘れてきて不自由していたからであります。
それでは仰せの通りにいたしましょうと、私の誕生日のお祝品は直ぐ決まりました。それが何日であったか、二十八日より数日前のことでした。
二十八日はご都合が悪くて、十月一日にお越し下さいました。いつもの通り大そう朗らかでいらっしゃいました。そして私の注文通り傘を頂きました。傘は注文に反して、とてもすてきな大よそゆき物でございました。
いつも気前のいいしづさんは、それに私の好きなお菓子とお魚も頂戴いたしました。死の影などみじんもないお元気そのものでした。お互いに数時間おしゃべりをして、お帰りになりました。
それから二週間めの十四日にお倒れになったというお電話をご主人から受け、あっ!という間にこの世を去っておしまいになりました。
お母さまが靖と同年で、母が大分疲れて来たので仕事を退いて世話にかかると、おっしゃっていましたのに、ご自分の方が先きに逝っておしまいになりました。
一人娘に先立たれた老母さまのお悲しみはいかばかりかとお察し申し上げます。
靖もあなたが向うへいらしたことを知って、「小山さん、どうしたの、こんなに早く来てしまって!」と、おこごと半分に言っていると思います。
私は大そう不便になりました。秘書はおりませんし、作品のリスト、靖の記事が載っている大小の印刷物、その他、それぞれの袋や箱に入れたままお渡しして整理して下さっておりました。外国の翻訳ものなども。片腕が無くなったような思いでございます。
劇症肝炎と言えば怖ろしい中の怖ろしい急激にくるものと聞いてはおりましたが、何の巡り合せかあなたがそれに犯され、あっと言う間に亡くなってしまいました。
あなたのお通夜の席に、一番近くにお住まいの田川純三さんがお見えにならないのを不思議に思っていました。ところがそれどころでなく、田川さんご自身がお倒れになって数日違いであなたを追いかけるように、お亡くなりになってしまいました。
前年暮の小田切進先生から去年の暮にかけて井上家が杖とも頼むお世話になっていた方々が相次いでお亡くなりになってしまいました。去年の大みそかには宅の近所にお住まいで、私が主治医のように思っていました心臓専門の方が、やはり内科医である夫人も気がつかない深夜に亡くなっておられました。
お正月を共にしようと上京なさっていたご両親や子供さんと夕方外で遊んでいられるのを、うちの嫁が見かけておりましたのに、翌元旦にはもう仏さまになっておられました。五十歳を少し過ぎたばかりでありました。
人生は長くて短かいと、私も身をもって感じておりますが、解釈の仕方によっては長い人も短かい人もある、ということにもなるかも判かりません。
あなたの追悼文をとお頼まれいたしました。ペンクラブにお入りになってからのお付き合いでございましたが思い出せば限りがありません。
幾山河越えれば平野がつづく、とでも申しましょうか。八十歳を数年越えたお母さまも私も、元気です。ご主人もお嬢さん方も慰め合っていらっしゃいます。
小山さんを偲んでご冥福を祈りつつ、これを書かせていただきました。
平成六年八月二十二日
(作家)
とぎれたままの会話 小山しづさんを憶う 大岡信
小山しづさんと初めてお会いしたのは、井上靖さんのお宅でだったように思う。井上さんがペンクラブ会長の時代である。何という控え目で有能な人だろうと感じた。小柄な体のどこからあんなに豊かな行動力が生じるのか、外見のやさしさからは全く想像できないような気がした。思いやりと励ましの精神と手ぎわのよさ、事務能力、とりわけ英語など外国語の処理能力、そういったものの凝縮・結晶した塊りのような人だった。
私がペンクラブ会長に選出される二、三か月前、小山さんはペン事務局を退職してしまった。どんな理由からか、ひとつもその件については話がなかったから、私は狐につままれたような気持ちに陥った。その四年余り後、小山さん自身が突然人生から姿を消してしまった。その急逝を知らされたとき、私は一週間近く中国・四国を旅行している最中だったが、あまりのことにただ頭が空白になって、すぐには事態を呑みこむことができなかった。
私がペンクラブ会長在任中に実現したことの一つは、Japanese Literature in Foreign Languages 1945~1990 ,Compiled by THE JAPAN PEN CLUB,の出版だった。フランクフルト書籍見本市の「日本」特集に合わせて大急ぎで編集・刊行したから、いろいろ不満なところもないわけではなかったが、一種の記念碑的出版物となった。
実はこれが刊行される上で、小山さんの熱意ある煽動が大いに励ましになったのである。すでにペンを退職してしまってはいたが、彼女は外国語に訳された日本文学の総目録がいかに必要とされているかについて、退職前から私に力説していたのである。私も同感だった。たまたま会長に選ばれたのをきっかけに、その実現にむけて走り出したのもこのためだった。ペンクラブの年間予算には一切手をつけず、外部からの好意ある寄付金によってまかなわねばならなかったから、まずは猪突猛進に近かった。私が何とかそれをやりとげ得たのには、小山さんの声援があずかって大いに力があった。
小山さんが詩を書いていることは、少し前から私も知っていた。詩誌『アリゼ』によってである。初めて読んだときは、同名異人かしら、と一瞬思ったほどであるが、読み返せば、それはまぎれもなく小山しづの詩だった。
しばらくして何かの会で顔を合わせた時、「詩、読んだよ」と言うと、即座に「ああらいやだ、読まれたの? 恥ずかしい」と逃げてしまったが、思えばそれが小山さんとかわした最後の会話のような気がする。小山さん、いったい話のあとはどう続けたらいいの?
(詩人)
小山しづの詩 清岡卓行
小山しづに初めて会ったのは、一九八二年八月、外務省のある会議室においてである。日仏文化交流の仕事としてパリのガリマール社から出版してもらうことになる、仏訳の『現代日本短篇選集』と『日本現代詩選集』のための編集会議が、そこで二回ほど開かれたが、このときの出席者が、編集側の井上靖、山本健吉、中村光夫、清岡卓行、吉行淳之介、大岡信、大江健三郎、外務省側の元駐仏大使中山賀博、そして、編集実務の連絡者として選ばれた日本ペンクラブ事務局の小山しづであった。
編集会議が始まる数か月前から電話で、私は小山さんと何回となく仕事のことで打ち合わせていた。彼女は落ち着いて、正確に、そして柔らかく話してくれる人なのでありがたかったが、その後、会議や懇親の集まりを重ねるうちに、彼女がその場にいあわせただれの言葉にもすなおに耳を傾け、二人の男性が対立しそうになるといわば母性的にその関係を協調にみちびき、だれの心も傷つけないように細かな心くばりをする人であると知った。
日本の現代文学をフランスに紹介するこの企画はほぼ円滑に、そしてみごとに実現された。そのことについて、企画の段階における中山さんの激励、編集と翻訳の段階における小山さんのこうした人柄、同じく文藝春秋の松村善二郎の温厚で学識豊かな人柄、そして、パリでの出版ならびにシンポジウムにおける小西国際交流財団の小西甚右衛門と菅野廸郎の深い好意、これらがそれぞれ大きな支えになっていたことが今もなお懐かしく思いだされる。
小山さんはこの国際的な文化事業における日本側のまさしく心優しい紅一点であった。
*
まだ若くて元気な小山さんが亡くなったと聞いたときは驚いた。劇症肝炎という、私にとっては初めて聞く病名でもあった。まるで、その優しく世話好きな人柄が耐えて秘めていたいろいろな悲しみや苦しみが、そこに閉じ込められていたような感じであった。
それから一年近く経ったとき、今度は小山さんが数多くの詩を書き溜めていたことを知り、−−しかも そこにはさまざまに優れた詩が含まれていることを知って、私はさらに驚いた。まったく想像もしなかったことである。
すぐ感じられた特徴の一つ二つについて、ここで記してみたい。
まず、こちらの胸に沁みとおってくる、他人という存在への自然で暖かい関心がある。冒頭の「ポケットベル」では自分に声をかけたがっているだれかに、「帰郷」ほか数篇では年老いた母に、「海棠」では娘に、「挽歌」ではその娘の友だちに、「小樽」では自動車の老運転手に、あるいは「夜の果てに」ではドイツ人の老教授にというふうに、いわば〈思いやりの抒情〉の深い底流を想像させる作品がいくつも並んでいる。
ついで、この抒情を表出する場合、ほとんどいつも、冷静な眼が視つめた周囲の風景なり風俗などが的確に描写されており、抒情と描写のバランスにある美しさ、ある真実の感じられることが印象的である。
こうした詩法を成立させた根底の動機は、やはり敗戦ならびにその直前の切実な体験を語った散文詩「祈る」あたりに強く感じられるようだ。そこでは、原爆の巨大な茸雲が空に見えた日、詩人は肺患のために火薬工場から強制送還されるが、「疼くのはこころだけみんな戦っているのにみんな飢えているのにみんな家に帰りたいのに」としか思わないのである。
(詩人・作家)
宇宙棋院の小山さん 黒井千次
小山しづさんは静かな碁敵だった。とはいえ、宇宙棋院での話なのだから、かなりおっとりしたレベルでの対戦ではあったのだが――。
碁を習い始めた遠藤周作さんが、自分より弱い奴だけを集めて碁の会を作ろうと言い出した結果誕生した宇宙棋院は、まともな強い碁打ちには馴染めぬ伸びやかな空気が横溢している。遠藤さんがペンクラブの会長になった時、そこの事務局の仕事をしていた三人の女性が、いずれも石を握ったことがないほど初々しい存在だ、とのことで入会した。
そのうち二人は次第に強くなり、古参の当方はたちまち追い抜かれた。そして同様に取り残された小山さんは、ちょうどぼくの良き碁敵となった。
日中は勤めを持つ人が多いので、宇宙棋院の修練の場である曙碁所に週一回集って来るのは夕刻の七時近くになる。やがてペンクラブの事務局を辞めた小山さんは、比較的早く顔を見せるようになった。こちらも六時過ぎには着くようにしているため、メンバーが揃わぬうちに二人だけで出会うことが多かった。
都営新宿線の地下鉄を曙橋で降り、階段へと向いながら振り向くと、小柄な小山さんがプラットフォームを歩いて来る。その姿を見かけると、いつもほっと温かな気持ちが湧いた。
曙碁所に着くと、小山さんはよく自宅に電話を掛けた。高齢の母堂が居られるので、何かと気を配っている様子が窺われた。
電話が済むと、これでよし、といった顔つきに変り、皆が集るまでに一局打ちましょうか、と楽しそうに呼びかける。
どちらも強くないので、まことに楽しい対局だった。あら、困ったわ、と言いながら盤面を睨んでも少しも困った感じがしない。なるほど、そうなるんですか、と他人事のように呟きながら次の石を置く。ぼくの方がほんの少し強かったつもりなのだが、時折びっくりするような手を打たれて混乱する。そんな時の小山さんは、あのくりっとした眼を細め、へ、へ、へ、と笑い声でも洩らしそうな満足げな表情だった。
あたりにまだ人影がなく静かな雰囲気であっただけに、小山さんとの一戦には常にひっそりとした親しみの気分が溢れていた。棋力がどうこうという碁ではなかった。小山しづさんという人間と和やかに向き合っている感じがなによりも強かった。
今でも曙橋の駅を降り、ふとプラットフォームを振り返ることがよくある。小山さんの姿は見えない。
(作家)
しなやかな勁さ 佐伯彰一
じつの所、小山さんが、ひそかに詩を書きためておられたなんて、まるで気がつきませんでした。もともと不注意のぼんやり人間ですが、ペンクラブでのかなり長期にわたるおつき合いの間、ちらとも感じとらせなかった小山流の控え目な気配りに、改めて感じ入る他はありません。
ペンクラブでは、当方が「国際委員会」(?)だかの取りまとめ役をやらされた折、何かとうるさ型の多い中での事務処理を、どうやら大過なく(?) 勤め了せたというのは、全く小山さんのお蔭でした。でも、少しも出しゃばることなく、肝どころは抜かりなく押えて、てきぱきとさばいて下さったのです。クラブの少々小うるさ過ぎる内情に、当方がいや気がさし、逃げ腰になった折に、わざわざ国際電話までかけてきて、「励まして」(?) もらった覚えまでありました。忘れっぽい当方のこととて、その事情さえもうはっきりとは覚えておらず、どう落着したのかも定かではありませんが、たしかパリのホテルの部屋の夜の電話口から聞えてきた小山さんの、あの物柔かに笑いをふくんだ語調だけは、今も耳許に蘇ってくる思いです。
また、ペンの『国際ニュース』で、小生の『自伝論』を取り上げてくれることとなった折など、自著の宣伝めいた紹介文はどうにも気がひけ、書きなずんでいたら、いつの間にかさっさと拙著に目を通し、手際のいい内容紹介をまとめて下さった。その草稿が手元に廻ってきて、ほとんど手をいれる必要もなく、入稿出来たという有難い思い出もあります。だから、これは「物の書ける人」と、その折感じとりながら、そのまま直接問いただす勞もとらなかったわが身の迂闊ぶりは、もう悔んでも詮方ない話です。
ペンクラブとの縁がうすくなってから、たまたま井上靖さんのお宅にうかがったら、小山さんも見えていて、たしかご一緒に夕食をご馳走になったと覚えています。井上さんのいわば渉外事務を、小山さんはほぼ一手に引き受けて、処理なさっていたご様子で、その頃井上作品の海外紹介が一際盛んになって来てもいたので、小山さんの事務処理能力を改めて再認識させられた次第でした。今にして思えば、小山さんの井上さんに寄せた敬愛の思いの中には、詩人として井上靖が大きくかかわっていたに違いありません。
小山義昭さんから送られて来た『雨あがり』のゲラを読み出した所で、ケレン味のない語り口の中からふと詩的昂揚が生じ、キラリと詩的イメージが光り出すといった呼吸には、井上さんに通うものが感じとられます。一貫してパーソナルな詩風で、「一九四五年八月九日十五歳の肺病やみの私......」といった詠い口が、ごく自然に身について、似つかわしい。自己誇示、ナルシシズムの臭いは、いささかもなく、穏かに老母の振舞いを見つめ、その語りに耳傾けて寫しとったり、「熊野川」沿いのバスの道行きを、過不足なくスケッチして描きとる。奇想のイメージ、激情の噴出はない代りに、眼ざしと手ざわり温かい語り手、観察者の存在は、しかと感じとられます。
小山さんは、旅行好きで、ローマ、イスタンブール、また東ベルリンへと出向かれたようですが、「暮れなずむボスポラス海峡の滑らかな海面」に「ゆっくりと滑り落ち」てゆく夕陽と重ね合わすように、トルコの「獄中作家」からの「ざら紙の便箋に蟻のような文字が滲ん」だ手紙のイメージが呼びこまれている所に、小山流儀が鮮かに匂い立つ。「世界中の獄中作家のうち、数十名にクリスマス・カードを送る仕事」というのも、迂闊な話ながら、全く初耳ですが、それがただの事務的な「仕事」にとどまらなかった所以が、はっきりと伝わってきます。いささかの気負いも気取りもなく、「仕事」がそのまま生きた情念につながり、詩的表現のうちに息づいています。
かなり長かったおつき合いの間に、こうした「詩的生活」の側面は、ついぞ見せずじまいだった小山さん。「いかにも迂闊だったなあ」と呟きながら、この世での人づき合いのはかなさと同時にその奥行き、味わいの深さをふと思い知らされたような気がしています。
小山さん、あなたの冥界での静謐な安らぎを心から念じ上げます。
(評論家)
しづさんの思い出 中野孝次
しづさんと最初に会ったのはいつだったか、茫々の彼方に属しもう思い出せないが、よく付合ったのは浜田山時代であった。私は新婚早々で線路ぎわの六畳一間に住む、小山夫婦は隣りの高井戸にいたので、しょっちゅう会って遊んでいた。碁、麻雀、酒、どれも当時は小山義昭や河野元一や大保昭生などの方が達者で、私はいいカモであった。そういう遊びのさいにもしづさんはいつも一緒に来て、それが特徴の明るい笑い声を響かせたのであった。当時は敗戦まもない頃でみんな貧乏だったが、貧しさの中に底抜けの開放感があり、希望がみちていた。
そのあとしづさんと一緒にしげしげと顔を合わせることになったのは、彼女がペンクラブの事務局に入ってからである。彼女は一番の古参らしく、呆れるほど作家に対し顔が広く、きびきびと物事を処理していた。どんなときでも笑顔を絶やさないでまわりを明るくするのは昔と同じで、私がペンに加入したのは遅かったが彼女がいるので旧知の所にいるような気がした。(因に彼女が辞めたあと私もすぐペンを出てしまった。)
このペンクラブで多くの作家や詩人と付合い、井上靖さん初め代々の会長に信頼され、いきいきと仕事をしていた間が、彼女の生涯における最も得意の時代ではなかったか、と私は推測している。ペンクラブの秘書長のような、自分の好きな文学の分野で大勢の文人と知合いつつ働くとき、彼女は水を得た魚のようにいきいきしていた。
家庭においてはどうだったか、これは亭主の義昭に聞かねばわからないが、家に閉じこもるより外で働く方が彼女には向いていたと思われる。いずれにしろ私は彼女のことを思い出すとき、どこにもそこに笑顔があって、気持よい親切な心遣いをうけたという記憶しかない。これほどイヤな記憶を一つも残さなかった人というのも珍しかろう。
私はもともと亭主の方と同級生であり、その縁でしづさんと知合ったのだが、われわれには互いの家庭にまで入りこんで家族ぐるみの付合いをする趣味はなかったから、ペンを辞めたあとの彼女がどうしているかぜんぜん知らなかった。そこへある晩亭主から突然のしづさんの死を知らされ、私はそのあまりに突然な死にショックを受け言葉がなかった。私は今のショー化した葬式が嫌いだから葬式にもゆかず、家で彼女の死を悼んだ。
彼女がこの世に残したのはあの無償の気持ちのいい笑顔だけだったが、今度彼女の書き残したものの中の詩が一巻にまとめられるときき、久しぶりに彼女の声に接しられるかとたのしみにしている。
いずれにしろ彼女は今も笑顔の人としてわれわれの心の中に生きているのである。
(作家)
しづさん、また会いましょう 植田いつ子
「暑いわね...どうしてる?、元気?...、どこかおいしいものでも食べに行きましょうか、出てらっしゃいよ」と、幾度呼びかけては涙ぐんだことでしょう。
ことのほか、じりじり照りつける夏でした。
子供の頃の熊本の夏は、油日照りのような日もあったのに、哀しみ多き年代にもなりますと、萎えた草いきれのあえぎにも似て、しづさんのいない今年の夏の暑さがつらく、無性に哀しく寂しいものでした。
しばらく会わないでいると、お互いに声をかけあい、会えばいつも女学生の昔にもどって、気がねのない淡々とした懐しいおつきあいでした。
あなたのお柩と写真を前にして、「どうして...どうしてこんなことがしづさんの身の上に起きたのか...」 と同じ言葉をかきくどくように涙でくりかえした日から、もう一周忌なのでしょうか。
重い寂し一年でした。
あなたが病に倒れられたという報せを受けたのは奈良でした。めったに旅行も出来ない私を、あなたは、かねがねから気の毒だといつも慰めて下さいました。あの時は珍しく、東大寺盧舍那佛供養の大法要に出席するためでした。ホテルを出ようとした寸前の報せに、一瞬、絶句し、胸の鼓動はたかまり、足もともふたしかに動転するなかで、儀式のあいだじゅう、必死にみ佛の前に唯々祈りつづけるしかありませんでした。
「しづさん...しっかり頑張って...死んではいやよ」...と、
でも、無常にもお聞きとどけかなわず、はかないしらせと共に、その夜のうちに東京へ帰りました。
そして、あなたの懐しい笑顔ならぬ、静かに美しく眠る姿に接し、なぜ...なぜこんなことがと、あふるる涙と共に、ただ合掌するのみでした。
早くに父上を亡くされ、母上のゆたかな愛情を一身に受け、のびのびと明るく愛らしく聡明な人でした。 淡々とした素朴な優しさと、へうへうとした深い情けのあたたかいぬくもりの人でした。
幼い頃から家が近く、なかよしで、あなたは一級下でしたけど、女学校時代は毎朝のように一緒に登校したものです。あの真青な麦畑の中の一本道を、ぎっしり本を入れた重たい手提げカバンを持ったセーラー服姿のしづさんが、目に焼きついています。クルクルと可愛いい夢多き文学少女でした。お互いに詩や俳句をつくりあってはたのしんでいたものです。
でも、私達の青春の背後にある時代は、戦争、動員という暗い雲におおわれていました。
あなたは、そんなときでも、人に喜びを与える役まわりをいつもして来られました。
母上と、優しい御主人と、二人のお嬢様にかこまれ、年齢を重ねるにつれ、生来のすんなりとした素直さで、生きる修羅も風のようにくぐりぬけて来たのでしょう...。私はまた一人、人間の深い哀しみを知る、かけがえのない友を失ってしまいました。
でも、しづさん、あなたの柔らかでおだやかな魂は、私のこころのなかだけではなく、多くの人々のこころと生命のなかに生き続けているのです。
亡くなられる十日ほど前、熱海の美術館へ行き、能楽堂でお芝居を見ての帰り、蓬莱で楽しい夕食をいただいたのが私とあなたの 最後の晩餐になりました。あの時のしづさんの嬉しそうなお顔を私はたいせつに私の胸深く刻みこんでいます。そして、私達のおつきあいは、今からまた新たに始まるのね...と話し合ったばかりでした。
まだまだ、此の世で、お互いに呼びかわしつつ、人生の見守り役であって欲しいものと願っておりましたのに、私達の前に立ちふさがった無常の別れの前に、ただただ、心からしづさんの御冥福を祈るしか、なすすべを知りません。
しづさん、どうか安らかにお眠り下さい。
そしてまた、いつまでもお話をつづけて行きましょう...ね。
(同窓・服飾デザイナー)
ごめんね、しづさん 上田公子
さっきまで母の掌にあったものが
もうない
電話でしづさんの訃報を聞いて一瞬絶句し、真っ白になった頭のなかに、突然、切り裂くほどの鮮烈さであらわれたのがこの詩句だった。熊本女専英文科同窓誌「一回生」一〇号に掲載されたしづさんの詩の一節で、詩は、ご母堂の老いを哀しくも美しくうたっている。おたがいの老親のことを語り合うたびにいつも胸中を去来したが、こういうかたちで思い出されるとは。
呆然として電話を切ったあとも、部屋じゅうに彼女のあの詩が波のようにたゆたっていた。しづさん本人は意図しなかったであろう、二重の意味をもつあの言葉が。
さっきまで母の掌にあったものが、もうない...。
しづさんと言葉をかわすのは、「一回生」十一号が届いて、お礼の電話をかけたときが最後になったが、あのときも声は生に輝いていた。だから、しづさん重態との報せを受けたときも、かならず回復すると信じて疑わなかった。劇症肝炎というものの恐ろしさも知らず、「昏睡からさめたらお見舞いに行く」などとのんきにかまえていた自分が許せない。ごめんね、しづさん。
お焼香のあと、まだ信じられない気持ちで見上げたしづさんの写真は、ほほえんでいた。思い出のなかのしづさんも、いつも微笑っている。笑顔のかわいい人だった。何事にも一生懸命な彼女だったけれど、真剣な面持ちのときでさえ、目が険しくなったのを見たことがない。あの大きな目には、つねに童女のような無垢のにこやかさがたたえられているようだった。
花にかこまれたしづさんの顔は、安らかできれいだった。いまにも目をあけて、「みんな、びっくりした?」とにっこり笑いかけてきそうなほど。
四十七年前、九月の新学期、転校生として緊張しながら女専の教室に入っていったわたしに、前のほうの席からほほえみかけてくれた人、それがしづさんだった。
東京に出てきてから、胸を病んで療養中の彼女を見舞ったとき、どちらが病人かわからないほどふっくらして血色もよく、逆にわたしの健康を気づかってくれたしづさん。髪を三つ編みにしてはんてんを着た、まるで幼女のようにあどけない姿がいまでも目に残っている。
戦後十年も経っていないころ、結婚式に招待された。招待状は、新郎義昭さんのお手製の木版刷りで「さがしあてた幸せをみなさまにもおわかちしたく...」と書かれていた。みんなで文字どおり幸せのお裾分けにあずかり、そのあと余勢をかって独身のわたしたちは新宿に繰り出し、「どん底」でとことん飲んだ。その招待状を、ごく最近まで文箱の中に大事にとっておいたが、肝心のご本人の手元には一部もないと聞いて、わたしが持っているよりはと、去年のはじめごろしづさんに送った。でも、先日、義昭さんに聞いたところ、どこにも見当たらないとのこと。もうしばらくわたしが持っていれば、ご遺族に渡せたし、しづさんを偲ぶよすがにコピーをとってみなさんにもお配りできたのにと残念でならない。
関西でのクラス会の幹事役だったしづさんが忘れられない。みんなに喜んでもらおう、満足してもらおうと、あの小柄な体でとびまわっていた。あの姿が彼女の生き方を象徴していたように思う。どんなところでもあんな風に人のために誠心誠意つくしてきたのだろう。
人のことは少し手を抜いて、もっと自分をかわいがって長生きしてほしかった。もったいないことしたね。ぺろっと舌をだして、へへっと笑うしづさんの顔が目に浮かぶ。
しづさん、あなたはほんとうに突然いなくなってしまった。わたしたちも遅かれ早かれそっちへ行くから待ってて。そして、あの笑顔で迎えてね。
不信心者のわたしだけれど、かつて歌った賛美歌の一節がうかびます。
彼方の岸にて 待てる我が友と
あい見る時こそ 別れもあらね
その時まで、さよなら、しづさん。遺されたご家族をあちら側からしっかり守ってあげてくださいね。
(同窓・翻訳家)
晴れ女 狩野美智子
今日 四月二八日
あなたも知っている伊豆の家の庭に
冷たい雨が降り 咲きかけの藤が
ひそやかに 明るい陽ざしを待っています
十年ほど前だったか
一回生の皆さんと ここで過ごした一日
よく晴れて 庭にはコスモスが咲き乱れていました
「晴れ女」だったあなた
しづさん
あなたと初めて出合った熊本女専
クローズィング セレクション
変なテキスト
国文では『源氏物語』
「あんなの ちっとも難かしくないわ」と
あなたが言うのに びっくりしましたっけ
それから何ヵ月かあと
「やっぱり『源氏物語』は難かしい」と
わざわざ言いにきたあなた
数年たって
あなたは東京の私の家に来てくれました
薔薇の花を持って
あの薔薇はどうしてしまったのだろう
おととしの秋
阿佐谷の家を建てかえるまで
古い庭にあった蔓薔薇
あなたが今官一さんのお庭から持ってきて
挿し木をした薔薇
紫がかったローズ色
三十年も 四十年も家の庭で咲いて
「しづさんにもらった今さん家の薔薇」と
大事にしていたのに
関東中央病院
渋谷からバスに延々と乗る遠さに音をあげて
私はめったにお見舞いに行かなかった
結核病棟の六人部屋
あなたは髪をお下げにして
顔色もよくて 元気そう
「昨日 病院を抜け出したの」と
義昭さんに逢うためにと
嬉しそうに 笑って言った
新婚の頃住んだ高円寺のアパート
竹林の暗い道の奥にあった高井戸のお家
井ノ頭公園のお家
どのお家にも よく行ったものでした
あなたと私の距離は
それほど近くはないと思っていたけれど
今 そうではなかったことがわかります
しづさん
あなたは私をどう思っていたのだろう
心の芯のところが 何か投げやりで
それがあなたを傷つけたかもしれない
あなたの淋しさを 時々感じることがあったから
しづさん
あなたの危篤の知らせに
どんなに驚いたでしょう
大阪から 美代子さんの電話
歯の根も合わなかった 二人とも
聖マリアンナ病院
向ヶ丘遊園から乗ったバスの のろいこと
津久井道
浄水場前
博子さんと駆けこんだ
救急病棟
劇症肝炎
しづさん
息をするということは
これほど大事業だったのね
一息一息 顎をあげて
一息一息 一生懸命
義昭さんが
あなたの呼吸に合せて
しっかり
がんばれ
しづ子 しづ子と呼びかける
血圧は50-20
肝臓と腎臓の機能はもう一割しか残っていない
腎臓透析の部屋に
ベットごと運ばれる
耐えられるか と
若いドクター
一九九三年十月十六日
あなたの人生は断ち切られてしまった
次の年の二月
大雪の降ったあと あなたのお家に行きました
「ちっと早よございました...強かったとですとに...
一人っ娘ですけん...」
にじみでる涙を拭う老いたお母さんを
慰める言葉があるでしょうか
「しづさんの一番好きなことは何だったのかしら」
「文学」と 義昭さんも由記ちゃんも真理ちゃんも
異口同音に言う
今官一の会
新田次郎の会
そしてあなたが何年も献身した
日本ペンクラブ
あなたのまわりがにぎやかでよかった
あなたに手向けるのには
色とりどりのチューリップ
あなたが植えようと買った球根を
いただいて伊豆に植えました
今 きれいに咲いています
赤 白 紫 淡い紅色
いつの間にか雨もやみました
しづさん
さようならとは言いますまい
お休みなさいと言いましょう
いずれ私も眠りにつくのだから
(同窓・バスク研究家)
にらの花 丸山真由美
小山しづさんは昨年(一九九三年)の十月十六日夜、劇症肝炎のため急逝した。十二日の昼間、川崎の自宅から奈良の私の元へ電話があった。「四日程前遠野あたりへグループで旅行に行き、旅先で具合が悪くなり、やっとの思いで帰宅し、かかりつけの医者に診てもらったところ、風邪だろうと云われて寝ている」という意味のことを話した。その声や息づかいが尋常ではなかったので、早々に切り上げた。その翌日にはもう昏睡状態になって救急車で病院に運ばれたという。十五日の朝、御夫君から知らせを受け、取るものも取りあえず駆けつけたが、意識はついに戻らなかった。
小山しづさんとは戦後創立された熊本女子専門学校で出遇った。ふたりは小説好きのところや演劇好きのところなど、いろいろと気の合うところが多かった。学生演劇コンクールに出す「郭公」の舞台装置係を二人で引き受けてから、一そう交流が深まった。
ある日のこと、英文学の永松定先生が、手相を見て下さるという。数人が見てもらった中で私には「線の彫りが浅いなあ、生命力が弱いということぢゃ」と云われたのだった。爆撃にあい障害を持ってしまった私には、やはり、と心にずしんと落ちて来るものがあった。しづさんの番になると「あンたは逢う人ごとに火をつけていく手相」と云われていた。前途の明かるいしづさんがどれほど羨しかったことか。
見知らぬ人ともすぐ友達になった。京都の帰り、上品なおばあさんと同席になったが、その方は種苗問屋のごりょんはんで、後にざくろの苗木を送っていただいたとか、金沢で困っていたアメリカ人学者夫妻を案内し、今だに手紙のやりとりをしているとか、いつも不意の出来事を聞かせてくれるのが楽しみだった。
しづさんは、昭和二十五年熊本女子専門学校を卒業した。二年生の昭和二十三年の六月、しづさんが日頃傾倒していた太宰治が亡くなった。彼女はいち早く上京して葬式に参列している。このことは後になって聞いたが、今のように交通が便利でなかった時代、その行動力には唖然とさせられた。その時知遇を得た人が、太宰治と同郷の津軽の人今官一氏であった。彼女は専門学校を卒業して大学へ行くという名目で、東京での寄寓先をこの今氏の元に求めた。「いまのままでは、地元から養子を迎え、結婚しなければならない羽目になる」とこぼしていた。蚕糸問屋の一人娘だった彼女は、こうして郷里を脱け出したのだった。
しづさんは今氏の家から、アテネ・フランセへ通った。この時期、信州で結婚していた私は一度遊びに行ったことがある。玄関傍きの三畳くらいの部屋で生き生きと勉強していた。
翌年彼女はめでたく早稲田大学の第二仏文科に編入学を許された。在学中に結婚している。ただあと数カ月で卒業という時結核になり、退学を余儀なくさせられたことはさぞ心残りであったろう。その後は、略歴の示す通り、次から次へと仕事が向うの方からやって来たように思える。昭和五十一年には、日本ペンクラブの事務局へはいり、文学好きの彼女にうってつけの仕事に勤しむことになった。
一九八七年の夏、大坂で詩誌「アリゼ」が創刊され同人になった。提出したらそれっきりという私と違い、推敲に推敲を重ね、何回もファックスを私宅に寄越していた。私は全詩中「にらの花」というのが好きである。控え目に咲くにらの花をうたいながら、娘たちのことを思ったと云っていた。二人の娘さん達に対する細やかな心遣いのにじんでいる詩でもあり、しづさん自身をうたったものでもあると思った。出遇った誰の心にも灯をともしていったしづさん、今ごろ宇宙のどこを飛翔していますか。
(同窓・主婦)
詩集『雨あがり』上梓に際して 小山義昭
亡妻しづの一周忌に、彼女の初めての詩集『雨あがり』を上梓することができましたのは、お力添えくださった皆々様のお陰と、心から感謝しております。
しづが急逝したあと、私どもに出来る何よりの供養は、彼女の書き溜めたものをまとめて本にしてやることだと思いました。文学に魅せられ、文学少女の心のままで急いで逝ってしまった〝ひとりの女〟の、「生きた証し」を残してやりたいと思ったからです。しかし、自分ながらだらしのないことですが、毎日が悔恨と感傷のくりかえしで、何一つ手につかず、三回忌まで延ばすしかない、などと思ったりしていました。
年が明けてからも、なにもかもが億劫で、人と付き合う気にもなれず、酒だけを頼りに殻に閉じこもっていましたが、四月末のある日、熊本の五高時代の同窓から、信州高遠の花見に行こうとの誘いがありました。実は、故人も大の桜好きで、〝来年は遠出して高遠の桜を見に行こうか〟などと話しあっていたこともあって、思い切って参加する気になりました。後で聞くと、その会に私を誘いだすよう、幹事に強く提言したのは中野孝次だったそうで、彼の厚意をうれしく思ったものです。
上諏訪の宿で、私が「故人の文集を作ってやりたいと思っているが少しも進まない」などと愚痴るのを聞いて、その中野の言った言葉が、煮えきれないでいた私の心のもやもやを晴らすきっかけを与えてくれました。
「バカヤロ。いい歳してなんて情けねえことを言いやがるんだ。そんなものは第三者にまかせて事務的にやらなけりゃ出来ねえに決まってるじゃねえか。いつまでもメソメソしてやがってだらしねえ男だ。いい加減に元気を出しやがれ」と毒づいたのです。
若い頃のままの毒舌が懐かしくもまた嬉しく思われましたが、彼をはじめ、花見にことよせて私を連れだしてくれた昔仲間の友情をただただ有り難いと思いました。高遠の桜は盛りを過ぎていましたが、終わりの花を見る感懐も、当時の私の心情にぴったりで、思い切って出かけて来てよかったと、それまでの胸の悶えが下りるような気がしたものです。
折も折、故人の熊本女専時代の友人、丸山真由美、川島博子のお二人が、詩文集にこだわらないで、詩集として上梓するよう奨めてくださったのも、よいきっかけになりました。
五月の末、生前しづが属していた関西の詩誌〝アリゼ〟の主宰、以倉紘平さんに連絡して、遺稿詩集の編輯と跋文のこと、出版社の取り決めのことなど、一切を取りしきっていただけないかとお願いしたところ、快くお引き受けくださり、八月の初めには、最終校のゲラ刷りをいただくまでに、はかが行きました。それもこれも、以倉・丸山お二方のご尽力の賜物と、心から感謝しております。
年譜の仕上げは、流石に私どもですることになりました。しかし、あれこれと記憶を辿っているうちに、人間というものは欲の深いもので、少しでもよい本にしてやりたいという思いが日増しにふくらみ、どうにも抑え切れなくなっていきました。
それは、どなたか、故人を知ってくださる方の寄稿文をいただいて、遺稿詩集に〝花〟を添えてやりたいという願いですが、どなたに、どのようにお頼みしていいものやら、いざとなると気が重くて、一日延ばしに延ばすしかありませんでした。思い余った末、晩酌のほろ酔い気分も手伝って、中野孝次宅に電話を入れてしまいました。故人のために、なにか一文を草してほしいという私の依頼に対し、それこそ案ずるより産むが易しで、彼が二つ返事で快諾してくれたのには感激しました。これに力を得て、それから二、三日の間、失礼をも顧みず電話をかけさせていただきました。
ペンクラブ時代、故人がお世話になった井上靖夫人はじめ、佐伯彰一、清岡卓行、大岡信、五木寛之、黒井千次といった方々や、故人の学友の方々ですが、どなたも快くご承引くだされ、このように情味あふれる手厚いお言葉を寄せていただきました。ほんとうに、ありがとうございました。当人も嬉しさのあまり、べそをかいているのではないかと思います。例の照れたような微笑みが目に浮かんでくるようです。故人ともども、心から御礼申しあげます。
しづは、川崎市在の菩提寺の墓地に眠っておりますが、八月の新盆の折、湖北の渡岸寺観音堂に、別に新しく位牌(秀文院釋尼学道)を納めさせていただきました。藤原仏と伝えられる十一面観音菩薩像はとても魅惑的な観音様で、故人も敬慕して何度もお詣りしておりました。一人っ子のせいか、世話好きで人一倍寂しがり屋の彼女に、少しでも侘しい思いをさせないようにという私ども家族の願いから、観音様の右脇に置かせていただきました。観光などで近江にお運びの折は、対面してやってください。
お手許にお届けした詩集〝雨あがり〟は、故人が好んで自称しておりました〝晴れ女〟にふさわしく、詩中の一編を書名としたものです。せめてもの思い出として、書架の片隅にでも置かせていただければ幸いです。
最後になりましたが、しづの急逝から葬儀・法要にいたるまで、親身も及ばぬお世話をいただいた大保昭生・正子、柿添英昭・とみえ両ご夫妻はじめ、並々ならぬご厚情をお寄せくださいました皆々様には、なんと御礼を申しあげてよいか、ただ感謝の気持ちでいっぱいです。今後ともご交誼を賜りますようお願い申し上げます。
なお最後に、本書のために献身的なご協力をいただいた湯川書房社主、湯川成一氏に心から感謝申しあげます。
一九九四年九月五日