遺稿詩集『雨あがり』小山しづ

目次    あとがき  年譜  別冊  おまけ  川柳me
ポケットベル

隣にかけたひとのハンドバッグのなかで
不意にポケットベルが鳴りはじめる
女は次の駅で降りた
空っぽの座席シートを風が吹きぬける
電車は音を響かせて鉄橋にさしかかり
ひととき
川明かりが車窓に映えた
気がつくと私のバッグのなかでも
ポケットベルが鳴っている
急いでドアの前にいき立ちすくんでしまう
持っている筈はないのだ
日常に絡めとられて
少しずつ何かが失われ
喜びも哀しみもやせ細っていく
きれめのない日々の
昼下がり
線路わきに紫陽花の青が揺れている

私のバッグのなかで
ポケットベルは鳴りやまない

郵便車

坂道のポストの前で
大きすぎる書籍小包を抱えて
郵便車を待っている
人っ子ひとり通らない
坂うえの繁み すれすれに
うろこ雲が広がって
夕日に映えると
空はだんだら模様のタペストリーとなり
紫が濃くなるにつれて
足もとから 寂寥が這いのぼってくる

冥府のガラス売りが通りすぎるのは
こんなときだろうか
坂道は
先細りにくねくねと捩れて
奈落の底は見えないが
この一本道しかない
一回きりの収集時間は疾うに過ぎてしまったのに
来ないかもしれない赤い郵便車を
待っている

坂のうえで
ふいに 風が鳴った
金木犀の薫りが
ほのかに ゆらゆらと降りてきた

かす

瞳孔を広げる目薬が効いて 次第に視点がぼやけてくる
替わりに 看護婦のかん高い呼び声が耳にすべり込む
うつむいて 瞼を閉じると
肩上げした花模様のゆかた着て
菊池川べりで見送った精霊流しの
船端を飾る提灯の揺らぎが見える
雲仙岳の上に開いた不気味なきのこ雲が見える
敗戦の夜ひとりで泣いた用水路の川明かりが見える
阿蘇山の高岳で仰いだ砂金のような星が見える
有明の暗い沖合にひとすじの不知火が見える
貪り見た夥しい光景が 瞳のなかに犇めきあって
硝子体がどろどろに溶けてしまった
「網膜に穴が開きそうよ」
こともなげに 女医さんは言い
驚きもせず 黙って頷く私
年ごとに 見たくないものが見えるようになり
見てはならないものを見てしまい
眼をそむけても見えてしまう
あんまりものを見すぎたので
ピントの外れた水晶体を
網膜が支えきれなくなったのだろう

眼科外来の待合室に待つ人たちも
窓際に揺れる青葉も
うっすらと乳白色に覆われて
よろこびも悲しみもパステルカラー
夏の終わりにふさわしい
静かな朝だ

遠めがね

彼岸花 からいも 西瓜 梨
しいのふた 荒じゃこ くじらンおば
精霊流し 招魂祭 肥後にわか
駒下駄の鈴のねは遠のいていく
セーラー服がもんぺになり
八月九日午前十一時二分
地響きとともに窓ガラスがぴりりと震え
雲仙岳の真上にグロテスクな黒い雲
動員先の火薬工場から強制送還されていた
肺病やみのわたし

遠めがねのレンズはひび割れて

しいのふた=有明海特産の小魚
くじらンおば=白身くじら
招魂祭=西南の役の慰霊祭

祈る

一九四五年八月九日 十五歳の肺病やみの私に 未来はなかった 憧れや幼い恋は遠い白い雲となり その日 雲は 巨大な黒いきのこに化けて 紺碧の空を覆うた 火薬工場から 強制送還されたとき 肺は痛くも痒くもなかった 疼くのはこころだけ みんな戦っているのに みんな飢えているのに みんな家に帰りたいのに

敗戦の真夜中 用水路のほとりにうずくまって 私は泣いた あした 何を信じて どうすればよいのか 抗いようもない濁流に押され 葉かげにひっそりと咲いていた菱の 白い小さな花がよるべを失って 流れていった

四十七年経った今も 戦火に追われて逃げまどう人々や痩せ衰えて お腹ばかり膨らんだ子供たちや 被爆の痛みと悲しみを訴える人々の映像に 胸は疼く 平和は私の肺に似ている 細胞の一部が潰えても 細々と 息を吸ったり吐いたり だからといって 完全に生きてもいないし 死んでもいない

地球の片側では 「今まで生きてきた中でいちばん幸せです」あどけない顔で答える十五歳の 少女の頰に涙があふれ 世界中から集まった選手たちが技を競い 弾け散る花火は かりそめの平和を夜空に描き メロディにあわせて観客の波が揺れ オリンピックは終わった

何がなし こころ弾まない一日の終わりに 暮れなずむ空を仰ぎながら 私は祈る 平安が地球を満たすことができないならば せめて 息絶えることなく どこかで花火が打ち上げられ 力いっぱい生きてきてよかったと 少女に歓びの涙を流させてください

百日紅

苔むした石段を昇りつめると
百日紅の木が立っている
その奥の古い寺の庫裏に
あなたが移り住んできて
まもなく
戦争は終わった
私たちはよく百日紅の木に凭れて時を忘れた
どんな話をしていたのか
つつむように降りて来る夕闇のはるか彼方に
ほの明るい残照の帯が一筋
雲仙岳のやさしい稜線を
くっきりと浮き立たせていた
もの静かなあなたは
なめらかな百日紅の木肌に白い指を滑らせ
遠くを見つめながら
切れ長の目を潤ませていた
ある日 バスの中で
不意に
大声を張り上げて軍歌を歌い出したという
非情なものに魅入られて
耐え切れなくなったあなたが傷ましく
今でも遣るかたない思いがする
雲仙岳は
いま 灰白色の噴煙に覆われ
猛り狂う火砕流に焼け爛れている
テレビの映像を見るたびに思い出してしまう
紅むらさきの花簪がよく似あう
百日紅のようなあなたを

帰郷

「さよならを言いに行こうね 母さん」
母の幼どちを訪ね歩く
会う人ごとに
遠い日のおもいでを
はた織り糸を巻きとるように
こもごもに手繰りよせては
屈託なく笑いあう

時が別れを迫ると
頰のあかりがふっと消え
「また会おうね
それまで お互いに元気でおろうね」
見えなくなるまで ふり返り ふり返り

苔むしためがね橋の下を
みかん色の夕陽が流れていった

黄昏

母さん お風呂にはいって 仏間を覗くと 灯りもつけず廊下に座って ぼんやり庭を見ている母の肩が すぽんと細くそげている 郷里からの遠来の客があるというので 朝早くから家の内外を掃き清め 廊下を拭き ガラス戸を磨き 風呂に水を張る 客がくつろげるようにあれこれ心配りしながら いつになく心弾ませて待っていたのだ

菊池川の河原や めがね橋のたもとに
夕方になっと わあっと 隣近所から集まってきて
真っ暗になるまでよう遊んだ
一番下の妹ば背負うて 走り出すとね
背中でおしっこするもんだけん
あたしまで わあわあ泣きながら帰りよった
飴やの三ちゃんは餓鬼大将で
うちの政雄はいじめられてばっかり
はんこやの寛次さんはようでけよったけん
誰もがいちもく置いとったもんね
油やの君ちゃんな 憧れの的だったのに
許婚が召集されてとうとう嫁にもいかず
傘やのお萩さんな 戦争未亡人になってしもうて
連れ子で再婚して えらい苦労しなはったなあ
織やのおえつつぁんな よう働くて評判だったたい

賑やかに客を送り出したあと かたづけを終え 今日はいちにち暑かったね もうあの人たちもホテルに着いたかしらん 何年ぶりだろ あん人も年とったなあ 家中しんと静まりかえって 急に窓から蝉のコーラスがなだれ込み あおあおと繁る庭の草や木が夕風にそよぎはじめ 汗ばんだ襟元に涼風が触れるころ 母は 黄昏に溶けてしまいそうになっていた

冬日

デイサービスのお迎えのバスを待っている
激しい氷雨の吹き降りで
びしょ濡れになってしまう
それでも母は浮き浮きしている

午後になると雨は止んで
空は青く大きくひらけ
紅梅が一斉に花開いて撓っている
三時過ぎまでに母は意気揚々と帰ってきた
手製の縫いぐるみのあかちゃんをさし出して
「見てごらん 可愛いかねえ」

ゆうべ故郷の幼な友だちの訃報を聞いて
涙ながらに読経していたのに
着替えを済ませた母に
「お悔やみ書かなくてはね」と言うと
「初めて聞いたよ」と驚いている

ニューロンがスイッチされるとき
その時々の感情だけが流れていくのだろうか
郷里から訃報がとどくたびに
母は思い出をなぞるように
広告紙の裏に何枚も下書きをする
清書して手紙を投函したあとは
心のなかはからっぽ
重なりつのる悲しみを
神さまが除けてくださるにちがいない

文机に向かって
母はきょうも
泣き泣きお悔やみの手紙を書く
ガラス戸いっぱいの西日は
柔らかく母の背中をくるんでいる

寒椿

さっきまで母の掌のうちにあったものが
もうない
言おうとして母の心のなかにあったものが
もうない
とりわけ胸をときめかすことも
もうない

めがね橋のたもとで
群れ遊んだ幼などちの
悪たれたことばや身ぶりをまねて
声たてて笑うとき
娘のころの
ほのかに淡い初恋を語るとき
日ごろの傷みも悲しみも遠のいて
涅槃の境にただよっている

木枯らしがどんなに冷たかろうと
庭の隅には
寒椿がいくつも紅い花をつけている

海棠

明けがた 雨混じりの激しい風音に眼ざめた 海棠の小枝が 上へ下へ 右へ左へ 大きく撓って 紅い花房を振りちぎってしまいそうだ

昨夜の電話で 娘は 鳥取に泊まるという 砂丘を歩くつもりだろう 高波の猛り狂っている海辺で 白砂は舞いあがり 巻き返して 足許を掬うだろう 危ない 行くな 声を出そうとして われに返った 行くか 行かないか 娘の決めることだ 娘は ひたすら歩いている いま 私は祈りたい 砂丘のあらしにも 決して怯むことのないように

桜島から定期船に乗ったら 船員さんだけなのね 運転席で コーヒーご馳走してもらった いろんな人と出会って 毎日こんな旅をしている 楽しい とても

それから三か月のあいだ 別府から 伊万里から 長崎から 熊本から 津和野から 電話をかけてくる 娘の声は弾んで明るい それでも 時折 安宿に独り寝ている娘の 誰にも見せない沈んだ横顔が ふっと浮かんでくることがある

濡れそぼって あらしに抗っている海棠の 花房のうす紅いろが 次第に 濃さをましていく

何もすることがないの
だれにも会いたくないの
足がふらふらして歩けない
自己暗示にかけちゃいけないわ
町なかで会うこともなくなって
久々に交わすことばだった
杖をつけばきっと歩ける
ほら この杖で歩いてみて
母の使わなくなった杖を渡したが
短すぎるからと言って
まもなく返しにきた
そのあくる日
あなたは逝ってしまった

きまじめに慎ましく生きて
欠けるものはないと思っていたのに
あなたの失ったものが大きくて
自ら求めるものが重すぎて
死の誘いに揺れていたのだろうか
あのとき黙って頷いていればよかったのか
それとも
手をさしのべればよかったのか

その夜私は一本の杖にこだわり
金属の杖の冷たさを思った

挽歌

深く澄んだひとみに迎えられて 一瞬 私は ことばを失った 胸骨に点滴の管を突きさしたまま 「水も喉を通らなくなった」と かれは 笑みさえ浮かべて言った

病室の窓の はるか向こうの丘の上に 遊園地の観覧車が 白く浮かんで見える ふと 追憶が甦った バスが葡萄畑を縫って アッシジの小高い丘に 近づいていたとき 急に厚い雲が裂け 教会や周りの赤屋根に 斜めに夕陽が射して 金いろに燃え立った あの感動に似たもの

半開きのガラス窓から そよ風が吹きぬけ ゆっくりと時間が流れていた ぽつぽつと 穏やかに 会話は往き交い ときには 声に出して笑いあった 「このつぎはスープをこさえて来ましょうね きっと飲めるようになるわ」と 言い残して帰った その二日のち 訃報が届いた 私が最後の訪問客だったという

それから毎日のように あの深く透明なひとみが 脳裏から立ち去らずにいる かれが 娘の友だちであったという ただそれだけのことなのだが

冬の桜

その日 桜は 窓いっぱいに 黒い網目を広げていた 訃報を耳にしながら 私の目と心に焼きついたそれは 死に絶えたあなたの 肺の血管 そして 私の青春の残骸だ

かつて 爛漫の花陰に 私たちは仰向けに身を横たえ 花びらが 額に 眼に 頰に 唇に 散り重なるままにしていた 長い沈黙のあと あなたは 顫える声で言った

—桜の樹の下には屍体が埋まつている! だからこんなに美しいのねえ

病み疲れ 死を憧れ 死の予感に耐えていたあなたに 私は何も言えなかった そして いま思うのだ それは 未来に旅たつ私への 精いっぱいの はなむけの言葉だったのだろうか と

あれから三十三年 桜の裸木は 今朝も 寒空にくろぐろと刻印されている

流星

生まれてこのかた 何千 何万の眼が 私に注がれ 私の前を通りすぎてきた ときに まなざしが交叉するとき 私は ふりむいて 立ちどまる 一年 二年 三年 どうかすると 十年も 四十年も こころの底深く沈んでいた さまざまな人々の まなざしや ことばや しぐさが ふと 浮かびあがり 今になって その孤独や 悲哀に 思いいたるのだ

下宿のあるじは 毎日 小説を書いている
若い詩人や 小説家のたまごがやってくると
あるじは 津軽訛りで文学論に熱中する
プーシキンの「オネーギン」や
ノヴァーリスの「青い花」を読み
ルオーを語り
ショパンを愛し
映画「荒野の決闘」のテーマソングを
いつも おくさんと声を揃えて歌う
ぺんぺん草の茂る小さい庭に
おくさんは 二十羽ばかりの鶏を飼っていて
玉子を毎朝市場に売りに行く
鶏が いつもよりたくさん玉子を生むと
下宿人の私に生玉子が一つつく
夕餉の菜は 一日おきに
鰊の煮付けか 白子の白菜なべにきまっている
たとえ 原稿が売れなくても
あるじは 挫けず 小説を書きつづける
十字架を背負うた使徒のように

流星いまだ地上の花をうらまず
光芒散華をよろこぶ
化して一塊の暗岩となるを哀しむのみ
   西暦 一九五〇年 耶蘇祭に    著者

あるじの作品集の扉に 墨書された詩句である

小樽

埠頭は昏れかけていた 運河沿いのガス燈に灯がともり 黄色い明かりがこぼれて 風に掃きよせられるさざ波に揺れている 小林多喜二のデスマスクや小熊秀雄の蓬髪の細面の顔が 私をとりこにしていた 対岸の古い大きな倉庫群が 黒々と空を区切って連なり 歴史の陰を落として 運河の水面はほの暗い 小樽という地名はアイヌ語のオタルナイ—砂のなかを流れる川—からきている オタルナイ河口の漁港が 小樽と呼ばれるようになってから町は栄えに栄えた 早逝した詩人たちは 砂上の楼閣の下積みになって苦しんだ多くの民衆の呻きを 詩や小説にうたった 文学館で見た肖像写真や自筆原稿や当時の新聞記事を反芻しながら 私は歩きつづける ふと気がつくと あたりに人影も絶え 街灯もない暗闇のなかで ぷたりぷたりと岸壁を叩く水音だけが 私を待っていた

翌朝 まだ眠り呆けている町に出て 車を拾った 小林多喜二や伊藤整を育てた商科大学を見たいと言うと 白髪の運転手は 黙ってハンドルを「階段のようにせり上がっている」岡に向けて走りだした 彼はサハリン生まれで 徴兵され 戦後は シベリアに抑留されたという「ご苦労なさったのね」「いや 苦労どころじゃない いま 生きているのが不思議なくらいですよ」 何かを突き抜けてしまったような明るい表情で答える横顔に かえって 私の胸はつまった 大学の近くに 幅広い煉瓦積みの石碑があった 小林多喜二の首が嵌めこまれている 三十歳にも満たない若さで拷問虐殺されたのかと思うと その意志的なマスクを前に 深い傷みが走った 旭展望台から小樽の全貌が見渡される 老運転手は眼を細め 海の彼方を指さして 「あの大きな島がサハリンですよ 冬になると もっと近くに見えるのだが……」 辿り着いた小樽の町で「老後は 蘭の花づくりをして 静かに暮らしたい」と独り言のように呟いた

熊野川

田長たなご 能城のき 神丸かんまる 日足ひたり 楊枝口ようじぐち 志古しこ 川沿いのバス停ごとに ひとり乗っては降り またひとり乗る 黙っていても 運転手にはみんなの行く先はわかっている
「嫁にいったうちの娘んとこに 昨日 あまの子が産まれての」
「ほう あのごんたがの」
「ほんに」
「おめでと おめえ とうと ばあちゃんになったかの」
屈託のない明るい笑いが 波のように広がる
「ほなら また」「おおきに」
会釈を交わして ひとり減り ふたり減り やがて 五、六人の客だけになる

遥かに重なりあう山々や 古い杉木立は 霧雨に煙り冬枯れの広い河原の真ん中を ひと筋の流れが 細々と濃紺の帯のように続いている

耳に纏わりつく騒音 埃臭い人いきれ 気忙しい時の刻み 心ない言葉の軋み なにもかも ボストンバッグに詰め込んで 私は 快い振動に身を委ねる

やがて バスは 崖っぷちをつんのめりながら 山を巻いて登り始める 対岸の山から 風が渡る 雑木林の白い葉裏が だんだんにめくられ 尾根まで登りつめると また 溪あいの翆色の淵から 新しい風が湧いてくる

バスのなかを ゆらゆら 時間が通っていく

城 その一

風化してはいるが 石垣は硬骨の風貌を失っていない 高層ビルに侵食されていく城下町を眼下にして 来歴を物語る石のおもてに 私は掌を当てて耳を澄ます

雪もよいの空に嵌め込まれた天守閣は おおらかな気品のある寡黙な老人に似ている 琵琶湖や比良の山なみのかなたに ひとり悠久を見すえたまま

開国を唱道して暗殺された城主の無念を想いながら 三層の急な階段を登りつめると 異国の人が梁の構造や壁の銃口を熱心に調べていた 窓から見渡す湖面は凪いで 小船の水脈が弧を描いている

城 その二

庭園の枯れ芝の上に 樹々の影が端正に延び 光と影の鮮やかな縞模様をプリントしている ひとときの静寂を乱さないように 時間が足音を忍ばせてゆっくり通り過ぎていく

濠端の淡い日ざしのなかに 私は溶けてしまう 薄氷の張りつめた水面に 﨟たけた白鳥が二羽向き合って正座している こんな時いちばん気持ちが安らぐねえ と囁き合いながら

廃墟

響きわたる試合開始の楽の音 猛り狂う猛獣の血みどろの戦い 渡り合う激しい剣闘士の刃のきらめき 興奮した観衆のどよめき 敗北者の悲惨な最期 それらすべてを 包み込んで 古代ローマの栄光は見る影も無く崩れ落ち 粗い石の肌を剥き出しにして 巨大なコロッセオはアーチに紺青の空を嵌め込んだまま 目覚めることのない深い眠りにおちていた

私がカメラを向けたちょうどその時 ガイドの口から漏れたのは イタリアに旅立った六月四日の 天安門広場事件と ソ連の列車事故と ホメイニーの訃報のニュースだった

千五百年前 既に死に絶えたコロッセオと 壮大な天安門が二重写しになって たちまちレンズが曇ってしまったが 人間の苛酷さと美への憧憬との救いがたい矛盾に 激しく揺り動かされながら世界の一隅で 長い歴史の一瞬を生きている 私は微小な存在を刻印しようと やみくもにシャッターを押し続けた

イスタンブール

大バザールに向かう狭い路地は 埃にまみれたトタン屋根の集落だ 低い軒下に屯する痩せた若者たち 重油で体中真っ黒になった少年 雑貨屋の店先で編み物をしているぼろを纏った老婆 うす汚れたパン屋の売り子 袖を引くアリ・ババの子孫たち

トプカプ宮殿の鉄門の前に歩哨兵がひとり 両手で銃を脇に抱えて身じろぎもせず立っている もの珍しげに振り返り ときには並んで写真を撮ったりする観光客に一瞥もくれず 目の高さの虚空を見据えたまま この若い男は恋人にどんな笑顔を見せるのだろう

広大な宮殿の奥には ハーレムがあった 過去の栄光をちりばめた王様の居間の裏手に 飾りもなく 窓ひとつない女たちの土屋が並んでいる その暗い陰湿な檻の中で 女たちは飼われた猫のように 愛撫と宴に酔い痴れる順番を待ちくらしていたのだろうか

冬になると 私には世界中の獄中作家のうち 数十名にクリスマス・カードを送る仕事がある 「来年こそは、あなたに幸せが訪れますように」と書き添えて トルコからだけ十二枚も返事が来た 「三十年も獄中にいます お手紙を下さい きっとお返事を書きますから」逮捕されて以来 裁判もなく拘留されている作家が多いという インクが薄いので ざら紙の便箋に蟻のような文字が滲んでいる

暮れなずむボスポラス海峡の滑らかな海面に ゆっくりと深紅の太陽が滴り落ちていった

東ベルリンの娘さん

エルベ河の畔りは鮮やかな緑にふちどられ 水はゆたかに 萌黄色のコルホーズは あふれる光に心を開き 風の愛撫に身をまかせている バスのなかで若いガイドさんが呟いた「六十五歳にならないと 西への旅行は許されないの」

真夜中から激しい雨になった 戦災に爛れた瓦礫の建物が 素肌をさらし 回廊のキューピットの彫刻は 黒焦げのまま濡れそぼっている 聖トマス教会の屋根が雨に溶けてしまうと もう国境だ 「ベルリンの壁」は灰色に冷たく 両側の石の建物は互いに監視し合っている 「東ベルリンよ さようなら」

東京は秋 東西ドイツの両首相が二十年ぶりに会見して「ベルリンの壁」は少し低くなったと言うニュースだ 上手な日本語で案内してくれたあの若い娘さんは どうしているだろう

夜の果てに

一九八五年の夏 ベルント教授の車で 人影の絶えた真夜中の街を走り 鬱蒼とした菩提樹のトンネルをくぐり抜けて 広場に出る ブランデンブルグ門が 天を背負うて立ちはだかり 白く蛇行する壁が 果てしない暗闇の奥に呑み込まれている ベルリンの歴史を 淀みがちに語る教授の声を耳にしながら 街灯もまばらな大通りを経て 中央公園に向かうと 噴水のまわりには 恋人たちが肩を寄せあい そこだけがほのかに明るかった

ベルリンの壁が崩れ陥ちた

自由を求めて 脱出を図った一万人のうち 三千人逮捕百九十一人射殺 ひとびとの怨嗟の壁は 崩れ陥ちた 十一月十日の朝 西への期待に目を輝かせて急ぐ群衆 シャンペンを撒き散らしながら 壁の向こう側に走り込む男 二十八年ぶりの肉親や友だちとの抱擁 高い壁の上によじ登ってこぼれんばかりの若者たち 百マルクでアイスクリームを買う少女 西に向かう車の輻輳 テレビの映像は その日から 繰り返しニュースを伝えた

二十二日の午後 ブランデンブルグ門は解放された

かつて ベルント教授が 日本文学選集編纂のため来日したとき 銀髪の頭を垂れ 背を丸め ゾルゲの墓に合掌する彼の 白いまつげが濡れていた いま その胸に去来するものの重さを想い 私は クリスマスカードのペンをとめて インクの滲むのにまかせていた

その朝地球は

その朝 地球はまるごと光に濡れていた

ヘッド・ミラーの中を あざやかな緑が走る
軒端のセルロイドの小旗が走る
道路が 赤いポストが 犬が 男が 女が走る
走って消える
まるで見知らぬ町のように

午前八時三十四分発直通綾瀬行通勤電車
最前車輌の窓際は
毎朝確保する 独りだけの時間と空間だ

カンヴァスは
透明なコバルト・ブルー
素早く描かれていく樹々の若葉
公園の紅いつつじ
自転車置場のひしめくハンドル
波打つ青い屋根瓦
煌くレール
信号機
リボンのように連なる車
道を急ぐ人々……

光は
溢れ したたり はじけ 散る

光の欠片かけらが 私の目につき刺さり
快いいたみとともに 胸深く滲みていく

そして
ふたたび
そんな朝は来なかった

秋影

強いアウトラインで青空をくり抜き 自己主張していた白い雲が 柔らかい綿毛になって 太陽から地球を守っている

茶色や黒の靴が多くなった駅のホームに 白いショートスカートが 長袖のカーディガンを羽織っている

多摩川と 灯のともった家々と 車のヘッドライトと 森と空とが蒼い水槽のなかにすっぽり浸かっている 夕暮れ

にらの花

花屋の店先に飾られることはない
けれども
柔らかい葉は束ねられ
八百屋の片隅に
ひっそりと心もとなく
青い香りを放って春を告げる

夏になると
照りつける日射しを浴びながら
花びら六枚の小さな花房が
いくつも寄り添うて
細くても勁い花茎に支えられ
白い綿毛の花かんむりをつける

突風が走る
ひととき 花かんむりは風に揺らぐが
あとは何もなかったように
空が藍いろに染まるころ
円錐形の白い花びらを
思いきりひろげて
宇宙への飛翔をこころみている

雨あがり

朝からしぐれていた 井上靖の詩「挽歌」の英語訳はないかという電話である 結婚して四日目に事故で夫を亡くしたドイツのひとが たまたま目にしたドイツ語訳の「挽歌」に心癒された 同じ境遇にあるチェコの友人にも 何とかしてこの詩を読ませてあげたいという 原詩には心当たりがあった

あなたが亡くなってから五日目に、庭のくぬぎの最後の葉を落した風が吹きました。あなたが亡くなってから一カ月目に、小さい地震がありました。あなたが亡くなってから三十九日目に雪が降りました。……

寒さのきびしい日に詩人は昇天し それからもう十カ月も過ぎてしまった 詩のフレーズが私の胸深く滲みていく 運よく一冊の英訳の詩集に「挽歌」は抄録されていた 詩集を手渡すことになった小さな駅の入り口に 金髪の 少女のようなドイツのひとが頼りなげに立っている 私はものも言えず その柔らかい手をつよく握りしめた

雨あがりの町は明るみかけていた